プロフィール

小山シーナのちょっと変わったプロフィール♪

以下は、私のプロフィール…と言うよりも、

私がどんな道を通ってきて、
どこへ向かおうとしているのか…。

私のストーリーが書いてあります。

このサイトをおとずれてくれている
あなたは、”本当のあなた”に会いたくて、
このページを見てくれているのだと思います。

なので、いちばんの目的は、
私が癒しを通して、
どんな風に本当の自分へと
向かうようになっていったのか…
(↑もちろん、まだ旅は続いています。)

そのストーリーを伝えることで、
何かがあなたの奥深くに響き、
あなたも、あなた自身のストーリーに
興味を持ってくれたらいいな…と
思っています。

あなたが今までどんな体験をして、
今、どこに向かっているのか…

それを言葉にすることは、
本当のあなたに出会う、
大きな一歩につながっていきます♫

そんなこともちょっと意識しながら、
読んでいってくださいね♪

祖父母は革命家

ちょっと遡って、
まずは祖父母の話から…

札幌出身の私の祖母は、
明治の終わりの生まれでした。

外からの文化がドーッと一瞬だけ、
日本に入って来た大正時代に
多感な時期を過ごした祖母は、

フランス文学、シャガール、
シャンソン、ボーボワールをこよなく愛し、

つばの大きな帽子をかぶり、
背筋をピンと伸ばしてハイヒールをはき、

「着物は女性の身体を縛り付けるもの」と、
和服の着物は一切身につけませんでした。

「蟹工船」で有名な、1933年に獄中死した
作家、
小林多喜二などと共に、
生死に関わる過酷な反戦運動に加わり、
社会に対して
高い理想を掲げていた革命家でした。

私が祖母のエピソードで、
いちばん好きなエピソードは、
17歳の時に、バスケットいっぱいの
真っ赤な紅玉のりんごを抱えながら
上京した…というくだり。

なんだか粋な17歳!!
想像するたびに、ちょっとワクワクして
しまう私です♪

祖父は、12歳で自ら共産党入り。

12歳で共産党に入った亀夫少年!!
(祖父の名前は亀夫くん♪)
家はお寺だったそうで、
即座に家族からは
絶縁され、
それ以降、祖父の家族は共産党員…。
(なんていう12歳だーーーw!!)

共産党員に育てられた、
かなりの筋金入りです…。

祖父も祖母も、“無産階級解放運動”
(今の言葉では、組合運動)、労働者運動、
反戦運動、
“特高”、“憲兵”、“留置所”、“獄中死”…

私の世代ではほとんど使われない言葉が
飛び交う
激動の時代の中で半生を過ごし、
戦後も変わらず社会運動に積極的に関わり、

安保闘争、原水爆禁止運動、平和大行進、
原子力発電所反対運動、水俣工場廃止運動…

亡くなるまで、常に何かの社会運動に
参加していました。

私の好きな祖父のエピソード♫

91歳で亡くなった祖父ですが、
晩年、脳梗塞で倒れてから、
左半身が不自由になり、
老人
ホームに入居したのですが、

亡くなる直前まで、署名を集めて、
「寮母さんの賃上げ運動」をしていました…。

なんとも祖父らしい(笑)!!

幼少時代ー母と癒しー

そんな二人のもとに生まれた私の母は、
当たり前のように筋金入りの社会運動家に育ち、
もう、なんでも社会運動にしてしまうような人でした…(泣)。

私は6歳の時に肝臓疾患が見つかり、
西洋医学では生涯薬に頼るか、
そうしなければあと5年くらいの命…

…と告げられたことががきっかけで、

母は私の病気を改善させるための手段…
鍼灸、漢方、東洋医学、食事療法を始め、
ありとあらゆる代替治療を探究し始めました。

そんな中で、野口整体の創始者、
野口晴哉先生直々の
施術を受ける
幸運に恵まれたことは
結構自慢です(笑♪)

が、しかし…

母にとっては、私の病気さえも、
社会運動のきっかけとなります。

食事療法で私の体質改善を行っているうちに、
母はその頃、ほとんどの人がまだ気づいて
いなかった、
食品添加物の害に注目し始めます。

そして…

やっぱり社会運動にしてしまいました!!

その頃の学校給食は、結構食品添加物
てんこ盛りだったらしく、
「学校給食反対運動」を始めちゃいました。

いやいやいや…おかげで
学校では肩身がせまかった…(苦笑)

ちょうど70年代後半の頃で、
日本にどんどん原子力発電所が
建設されていた時期でもあり、
水俣汚染が問題になっていた頃でもあり、

母はいつも何かしら、“なんとか反対運動”
参加していましたが、
「学校給食反対運動」が出てくるとは!!

母…恐るべし…(笑)

とにかく、時代の先を行っていた
女性
だったと思います。

当時は女性が仕事を持つことさえ
はばかられた時代に、社会に真っ向から
反対するような
運動に迷わず
まっしぐらに飛び込んでいって、
リーダーシップをガンガンととっていく
ような女性でした。

近所の人も、学校の先生も(校長先生までもw)、
怖れおののいていたような感じでした(笑)。

私はといえば、
「フツーのお母さんが欲しい…」と、
心底願っていました(笑)。

機能していない家庭と父

そんなわけで…

「マイホームを持つことが夢…」みたいな、
ごく普通の日本のサラリーマンだった父は、
母と共通な価値観はまったくなし…。

そこに父方の祖母の同居、
父の愛人問題も加わって、
両親の不仲はみるみるうちに深まり、
母は私たち3人姉妹を連れて、
さっさと家を出ていきます。
(↑この行動力もすごい!)

別居後、母はさらに社会運動にのめり込み、
水俣の工場の前に座り込みで、
何週間も帰ってこないとか…。

そういうことをフツーにする、
あまり母らしくない母でした。

私たち3姉妹は幼少の時期、
かなり
子供たちだけで過ごしていたような
記憶があります。

今の時代だったら、私たち、社会福祉の人に、
保護されていたんじゃないかしら…?」

と笑い話になっている今日この頃です(笑)。

とにかく“普通”に憧れた

病気のこともあり、そんな家庭の事情もあり、
とにかく”普通の家庭”とはありありと違っていたので、
とにかく普通にあこがれました(笑)。

それで、子供の頃から一生けんめいに
“普通”に振る舞って、大人になる頃には、
どうにか“普通の人”を卒なく演じるようになって、
安心していたのも束の間…

だんだんと、“普通の人”の中に自分が
消えていくような…

自分が一体誰だかわからない…
つかみどころのない虚しさにおそわれる
ようになっていきました…。

それが私の自分探しの始まりでした。

パリで過ごした2ヶ月半
バスティーユにある「女の館」


どんなに楽しいことをしても、
買い物に行っても、旅行に行っても、
恋愛に夢中になっても、

ブラックホールのように深い虚しさが
気がつくと私の内側を占領している…

とにかく、今の環境を大きく変えてみよう…
そんなことしか思いつかず、仕事を辞め、
貯金と退職金を全部持って、
ヨーロッパ一周旅行に
出かけました。

その虚しさから離れられるのだったら、
どこでもよかった…。

そんな思いで出かけた気がします。

最初は、知り合いを訪ねてドイツに…。
その後、列車でフランスに…。

フランスとドイツの国境にある、
大聖堂が有名な小さな町を経て、
夜行列車でパリへ。

パリのバスティーユには、
女性ばかり700人が住んでいる
「女の館」という下宿所があり、

夏になると、ヨーロッパの人は

長く夏休みをとって帰省するので、
その間、観光客に安く宿泊させてくれることを
友人が教えてくれて、

とてもラッキーなことに、その「女の館」に
宿泊することが
できました。

この「女の館」が、私の人生を
大きく変えることになるとは…!!

当時、私は20代前半。

その頃の日本の社会は、
女性はハタチ過ぎたら
おしまい…
それ以降は
どんどん価値が下がっていく…
早くいい結婚相手を見つけて結婚しないと…

そういう暗黙の集合的催眠術に
誰もがかかっていました。
私ももちろん、かかっていました。

20代前半の、まだ何にも体験していない、
ベイビーみたいな
存在だった私の中にも、

「私ももう、ハタチ過ぎちゃった…」
みたいな気持ちがどこかにありました。

ところが…

この「女の館」に住んでいた女性たちの
存在がすごかった。

“たくましい”の一言。

パリの女性限定の下宿所に住んでいるわけですから、
もちろん、みんな独身。

パリに身寄りがあれば、
そんなところには住んでるはずがないので、
ほとんどが外国人か地方出身の女性たち。

みんな一生けんめいに、
自分の力で生きている。

年齢も、私が知り合っただけでも、
17歳から70歳と様々。

その時に仲良くなった、
ハンナと言う女性がいました。

ハンナとの出会い

ハンナはモロッコ出身で、
イスラム教徒の家庭で育ちながらも、
離婚をして家を出て、パリの「女の館」で
暮らしていました。

イスラム教徒で、女性から離婚を
するということは、
ものすごい重罪。
家族とも絶縁され、自分の国にも帰れない…。

そういうハンナが私に言うんですね。

「私、今、ピアノを習っているの!」
ピアニストになるのもいいわよね…」

「ダンスも素敵よね…」
「バレエも習おうかなー…」

「今、心理学も学んでいるのよ
心理学者になるのも悪くないわね…」

目をキラキラと輝かせて、
当時36歳だったハンナが、20代そこそこで、
もう人生下り坂みたいな気分でいた私に語りかける…。

その言葉たちに、そのハンナの姿に、
そして、女の館で出会った力強く生きる
数々の女性たちに、
私は決して大げさではなく、
大きなトンカチで頭をガッチャーン!!と、
割られた気分でした。

いやいやいや、“目が醒めた瞬間”というのは、
こういうことを言うんですね(笑)。

ハンナとは、今でも連絡を取り合っています。

日本脱出!

「日本にいたら、私はきっとダメになる…」
直感的に、そう思いました。

で、再就職をやめにして、
アメリカに留学することに決めました。

1年半くらい夜職バイトをして、
足りない分は、父親に借金して、
アメリカへ…。

イルカのくれた夢時間

私のアメリカ留学の表向きの理由は、
「イルカセラピー」を学ぶため。

本当のところは「自分探し」。

でも、そんな意識もまだその頃は、
生まれていませんでした。

とにかく、このままではダメになる…。

頭をガチャーンと割られて、
人生やり直さないと…と思いながらも、

まだ、自分に向き合う準備が
できていなかったのだと思います。

イルカに頼りました(笑)。

イルカセラピーは、主に自閉症の子供
中心に使われている、
イルカを使った
認知行動療法の
ひとつで、通常、
池州の中に飼育されている
イルカで行います。

でも、だんだんと私は、海で野生のイルカと
イルカセラピーができたらいいなと、

思うようになっていきました。

ご縁があって、小笠原の父島で
当時、“元祖・イルカ泳ぎ”と称して、
日本で初めて野生のイルカと泳ぐことを
やっていたサーフショップ、
”R・A・O”に
ご協力をいただいて、

本当にできそうな…というところまでいきました。

…ですが…

ちょうどその頃、神戸の震災がありました。

どこまでも深く、どこまでもブルーな小笠原の海で、
毎日、毎日、イルカと泳ぐことは、
当時の私にとって、ココロにもカラダにも、
言葉にならないほどのギフトでした。

でも、震災があった時に、
また、ハッと目が醒めたような
感覚がありました。

小笠原の海は、とっても遠い。
東京の浜松町から船で25時間。
飛行機は、緊急の時以外はありません。

ちょっと旅行に…という感じでは
行かれない場所。

なかなか人が通える場所では
ありませんでした。

みんな、イルカと泳ぐと本当に元気になる。

でも、日常に戻っていくと、
その元気も、少しづつまた失ってしまう…。
そういうことも見えてきていました。

震災も含めて、色んなことが起こる私たちの日常。
人が傷つくのは、大概、人と人との間でのこと…。

癒しは、日常の中で人と人との間で
おこなわれていくべきこと…。

そんなことにも、
気付いていくようになっていきました。

異次元空間・サンフランシスコ

そして、イルカに別れを告げ、
サンフランシスコに移りました。

“統合学研究所”という、人の意識、
心理、スピリチュアリティー、身体、
ソマティクス、文化、社会、アート…

さまざまなものを統合させて
“人”という存在を捉える…

そんなユニークなコンセプトで
人間を探究することを試みる、

全米でも唯一無二なめずらしい大学院が
カリフォルニア州のサンフランシスコにありました。

サンフランシスコは半島になっていて、
その昔は、サンフランシスコのすぐ側にある
エンジェルアイランドという離島から、
移民たちが入ってくる港がある場所でした。

おのずと移民は多いし、
戦争中は工場もたくさん建てられ、
そこで働くために有色人種の人たちが
多く移住して来た場所…。

とにかく、色〜んな人たちが住んでいる。

人種差別がまだまだ色濃いアメリカ社会の中で、
サンフランシスコ周辺の”ベイエリア”と呼ばれる地域は、

普通のアメリカと違って、「誰でも受け入れOKだよ…」
みたいな
暗黙の了解がありました。

60年代に愛と自由とつながりを求め、
大きなムーブメントを起こしたヒッピー文化
発祥の地も
サンフランシスコ。

70年代後半にゲイの人たちの人権運動が
起こったのも
サンフランシスコ。

全米で初めて黒人の市長が選ばれたのは、
隣街のバークレー。

2007年以降はIT産業がどんどん参入し、
今はだいぶ変わってしまったけれど、

当時は、「普通の人じゃなくても大丈夫」(笑)
というサンフランシスコのユニークな文化が
とても肌に染み入って…
すっかりいついてしまいました…(笑)。

「本当のあなたは誰ですか?」と問いかける
ハコミセラピー


そんなユニークなサンフランシスコで出会ったのが、

「本当のあなたは誰ですか?」と問いかける、

自分自身の化けの皮をどんどんはいで(笑)、
本当の自分に出会っていくという、
めっちゃ深い「ハコミセラピー」でした。

ハコミセラピーは、マインドフルネスを使って
どんどん潜在意識のレベルまで入り込み、

自分にくっつけてきた、「欠けた意識」を
玉ねぎの皮をむくようにはがしていきます。

それは、それは、みそぎのような作業でした。

でも、おかげで本当にたくさんの
”化けの皮”がはがれて、

もう、自分以外の誰かを演じなくて
いいことの気持ちよさ…

等身大でいることの気持ちよさ…
嫌われても構わない気持ちよさ…
人の目なんてまったく気にならない自由さ…
自分の感性がどんどんよみがえる気持ちよさ…



なーんだ、本当の自分でいるって、
こんなに気持ちの良いことなんだー♪

もっと早くすれば良かった…(笑)と、
心から思いました。

痛みがくれたギフト

小さい頃、病気でいちばん体調が悪かった時期、
2年くらいの間ですが、私には普通の人が
見えないものが見えました。

天使とかだったら良かったですが、
どちらかというと、ちょっと怖い系…。
そしてよく、動物に襲われました(泣)。

普段はおとなしいお友達の家の猫とか、
学校で飼っている子ヤギとかが、
私に、「フーッ!」と毛を逆立てて、
向かってくるのです。

周りにいたお友達や、そのお母さんは
びっくりして私に謝るのですが、

私には、ちゃんとわかっていました。
私に原因があったこと…。

めっちゃ周波数が重くて暗かったんだと思います。
そして多分、あちらの世界に片足くらい、

突っ込んでいたのでは…と思います。

加えて…

小学校の時は厳しい食事療法を母に実行
させられて(笑)いたので、

クラスでひとりだけお弁当持参なのと、
母の「学校給食反対運動」が相重なって、

(恐るべし母、学校の前でビラ配りとかしちゃうw)

とにかく、これ以上目立たないように…。
とにかく、これ以上先生の機嫌を損ねないように…。

とにかく、これ以上、みんなと違わないように…。

仲間はずれにされないように…。

私は皮膚全身がまるでアンテナのようになって、
人の様子、態度、気持ちを察知することを
全身で練習するようになっていました。

こんな自分を発見しながら、
どんどん癒していくうちに、

子供の頃の体験が、実はすべて、
最高のカリキュラムだったこと、
ものすごいギフトだったこと、

そのためにがんばってくれた子供の頃の私は、
本当に最高だな=3(←フゴフゴマーク)と、
誇りに思うようになりました。

この、子供の頃の”カリキュラム”のおかげで、
私は相手のエネルギーを見たり、
感じたりすることが、いつしか自然に
できるようになっていきました。

もちろん、日常の中ではもう、
そんな必要はありませんが、
ヒーリングの
セッションをする時は大活躍です♪

癒しを超えて「ソウルの自己実現へ」


癒しの世界に入り込んでから、

かれこれ30年ほどの月日が経ちます。

ハコミセラピーに加えて、
色々な癒しを学び、体験し、
楽しんできました。

そして、深い癒しの先に待っていた…いえ、
深い癒しと共に進んでいく、

「ソウルの自己実現」という、
私たちの誰もが、地球でまっとうしていく
”本当の仕事”にめぐりあっていきました。

ソウルの自己実現

ソウルの自己実現というのは、
自分が今回、この人生でやりに来たことを
まっとうしていくこと。

そして、本当の癒しというのは、
ソウルがやりに来たことをできる自分に
なっていくこと。

深い癒しと共に行なっていく、
最高の自己実現です。

私たちは、誰ひとり例外なく、
その人だからこそできること、
とってもユニークな
“ギフト”をもっています。

そのギフトを表現しながら、
自分自身を常に成長させ、進化させ、周りも、
自分自身も、
最高にしあわせにしていくこと。

こんなしあわせ、他にある?

(^O^☆♪


小山シーナ
カリフォルニア在住

NOVAサウスイースタン大学
心理過程修了

カリフォルニア統合学研究所
東西心理学修士課程修了

インターナショナル・
ハコミ・インスティテュート
公認セラピスト

ハートマス研究所
公認レジリエンス・コーチ

♫♪♪

子供の性暴力を5世代で
終わらせるミッションを持つ、

「Generation Five」の創始者、
ステイシー・へインズによる、
ソマティックスをベースにした

トラウマの癒しトレーニングを終了。

ウーマンズ・スピリチュアリティーの
先駆者であるビッキー・ノーブルによる、
世界初の女性のための丸いタロット、

マザー・ピース・タロットリーダーの
資格伝授。

Generation Five
コミュニティーオーガナイザー、

女性のためのヒーリングサークルづくり
などを経て、

従来のセラピーという枠を大きく抜け、
ココロ、カラダ、意識、スピリチュアリティー、
エナジー・ヒーリングを統合させた、
ユニークな癒しを提供する傍ら、
癒しの文化づくりを発信中♬

著書:マイボディーハコミセラピーで心とカラダの仲なおりー
(徳間書店)

なが〜いプロフィールを、
最後まで読んでいただいて、
ありがとうございました。

あなたのストーリーも、いつかぜひ、
聞かせてください♪

小山シーナ